カテゴリー「あれから、今、、は」の記事

2008年7月 5日 (土)

あれから、今 は、、【10】

滞在時間の関係で、早朝よりhospital病院に行き【親父】にhouseアパートの処分を報告。

そしてアルバム関係を引き渡して、一旦 hotel【豊泉荘】に戻り荷物を整理してチェックアウト。Photo        

今日は【小倉リーセントホテル】に宿泊予定の為、再度 病院に立ち寄って【親父】に『年末12月に逢いに来るので其れまでは、暫しの別れ、、、、と成るが皆様に迷惑を掛けずに、大人しくしておいてくれ!』 と申して別府を離れて、一路 北九州へ、、、、、、。

取り敢えず【小倉リーセントホテル】でチェックイン、荷物の整理をして【親父】の写真を持って【戸畑の母】の元に、、、、。2

【母】は、『時には笑い』、『時には呟き』、『時には沈黙』、、、、、を繰り返しては、何度も何度も写真を見ていた姿が、印象的だった事が思い浮かんできました。

此ノ度は2泊3日の滞在でしたので、疲れも有り【小倉リーセントホテル】に戻り床に就いていました。

翌日、9時頃のbullettrain【レールスター】に乗車して帰路【大阪】へ、、、、、。

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2008年6月15日 (日)

あれから、今 は、、【9】

annoy平成13年8月8日。【親父】との対面を果たして、一路 北九州の2 【母】の元に、、、、、、。annoy〔実は別府滞在中の僅かの時間に、北九州に帰る迄に仕上がるようにcamera現像に出していました。〕

shine【母】に【親父】の写真を見せながら、現状を報告しました。私はこの時に思った事は女手一つで、私達を此処まで育てて呉れた【母】に「親父に逢いに別府に行く!」と告げた時の【母】の心の思いは一体如何だったか、、、、、っと。shine

diamond然し、【母】はこの様に語っていました。「何れは、子供の誰かにお願いをする筈だった」と同時に、【8】で述べた様に「【親父の母親】との約束を守る心算でいた」事を話して呉れました。そして「最期には【正彦】が動く」と思っていた、とも語っていました。diamond

子供として私の取った行動は、間違い無いと確信している。が、然し女手一つで一人苦労を背負い込んだ【母】の人生を考えると、sad複雑な気持が有ったのも事実でした。

其の迷いの私の背中を押して呉れたのは実は【母】でした。トコトンPhoto 【親父】に裏切られてきた【母】でしたが、「子供からしたら、【親父】はあんた達の【父ちゃん】やけん!」と、、、。

thunder北九州滞在からbullettrain帰阪して早速「長兄」・「長女」に【親父】の写真を持って行き、其々に【親父】の現状を伝える。そして残り僅かな人生、、、、、、環境が許せば是非、【親父】に逢いに行く様にお願いをして来ました。thunder

夏も過ぎて初秋の9月或る日。spa別府市役所からのtelephone電話が入る。「【親父】のアパートに付いての処分依頼」を受ける。「担当医との話し合いで病院療養を継続。依って賃貸補助の打ち切り」を決定した旨の事。

私は二つ返事で「日程調整をして別府に参ります」依って【処分業者】・【アパートの大家】を紹介して頂き、9月秋分の日を挟んでの前後に伺う事に決定を致しました。出発までに【大家】さん・【業者】さんと打ち合わせを行いまして、別府に向かって再度bullettrain 出発です。

(今回は、アパートの近くのPhoto_2 【豊泉荘】に宿を取る事としました。そして、病院の【親父】には「全てを処分する」旨を申し附けて置きました)

大阪を朝一番で出発し、10時半頃にアパートに到着。【大家】さん・【入居者】の方々にご挨拶を行いました。そして「必要品の有る方は如何か引き取って下さい」とお願いをし、私は【選別作業】をして整理してはspa【豊泉荘】との間で荷物を運ぶ事を繰り返しました。

処分の目途が付き「残りは全て業者に引き渡す旨」を伝えてアパートを去りました。そしてbuilding市役所へ報告に行き、hospital病院の【親父】に「アパートを処分した」旨を報告。spa【豊泉荘】に戻る事に致しました。

選別した荷物は殆どがbook「アルバム」関係で、明日hospital病院の【親父】に引き渡す心算にしていました。私は、book「アルバム」をeye見ながら【親父】の過去を沁み沁みとgawk回想しておりました。何時しか深い、深いthink眠りに就いている自分がいました、、、、、、、、、、、。

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2008年6月 8日 (日)

あれから、今 は、、【8】

平成13年8月8日。 四十数年振りに【親父】とのPhoto happy01再会を果す。

これからは、crying永久の別れ迄の約一年間を回想しながら徐々に、、、、。

この日【親父】と再会後に、鉄輪のshadow【K】さん宅をhouse訪問。telephone電話で何度もお話をしていた為、初対面ながらhappy01旧知の間柄の様に其々にshine会話が弾みました。私としては如何しても聞いて置きたい事の一つで【先祖のお墓】に付いて、詳しく話をお聞きする事が出来ました。

何故に【先祖のお墓】か、、、っと申しますには、実は深い訳が有りました。【親父の母親】は離婚後も私の【母】と接触をしていました。【母】曰くには、Photo_2 【親父】が都城に【先祖のお墓】を立派に建立し直した旨、Photo_3 【母親】に写真等を送っていたそうでした。其の時から、私の【母】に対して、【親父の子供】の誰か一人でも【親父】の最期を看取って呉れる事を切にお願いをしていた、、、、との事が有った事実。〕

Photo_4 【親父】は友人の勧めで、四国の愛媛県のとある場所に【先祖の墓】を建立して、【父】・【祖父】を其処に納骨していた様でした。が、其れが或る日突然に墓地其の物が違法で、【先祖の墓】は違法建立として強制処分になったとの事です。依って【父】・【祖父】の遺骨を止む無く別府に引揚げ、其の時に【K】さんの知人でお寺の住職さんを紹介して頂き、取敢えず10年間の永代供養としてお祀る。

又、【親父】は離婚後70 に内縁の妻がいた様で、数年前にその人を亡くし其の遺骨もお寺さんに預けていた事も判りました。

其のお寺さんとの10年間の期限が迫っていた事と、【親父】の先行きの事も有り後見人の立場から、【小倉の叔父】との間で私が別府に訪問をする前に手を打っていた様です。

(内縁の妻の遺骨は、【小倉の叔父】が無縁仏として京都のお寺に永代供養。【父】・【祖父】の遺骨は、北九州の霊園に【親父の墓】を建立するまでの間 一時預け。)

ついつい長居をして、何時しかsun陽も傾きかけてまいりました。Photo_5 【K】さん夫婦には、時間の許す限り別府に来ます、、、との約束をして別れる事に致しました。

一路【親父】の待つhospital病院に急行。【K】さん夫婦との面会の様子を筆談。市役所buildingに挨拶に行って、其の後北九州に帰る旨を伝えました。

帰り際に「【正彦】又、来てくれ!」とのPhoto_6 【親父】の言葉に私は頷いて「何時でも必ず来るけん、何も心配はするな!」その代り「病院の皆様に迷惑を掛けない事!」を条件に病室を出る。

担当医・婦長さんにご挨拶をしてから、市役所へ、、、、、。福祉課の方とも面談をして、お礼・お願いをして、北九州へのtrain帰路に就きました。

車窓からの別府のPhoto_7 街並を観ながら、一路hotel 北九州へ、、、、、、、、、、。

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2008年5月18日 (日)

あれから、今 は、、【7】

         平成13年8月8日 快晴の朝sun  一路 九州へ

朝一番のbullettrain新幹線に乗車して『小倉駅』で下車。JR日豊線、特急〔ソニック〕に乗車。期待とcoldsweats01不安が入り混じりながら、いざ【別府】へ、、、、、、。

車中では大好きなbeerビール】を、丸で水の如く次から次へと飲んでいる自分がいました。 《実は【別府】には、平成11年8月に息子と【湯布院】spaに行く為に〔関西汽船〕shipで【別府】に立寄っていました。其の事は後日に書きますが、school小学校の修学旅行以来の【別府】でした。》

列車trainは山越え・谷越えを繰り返しながら、次第に【別府】のspa街並みが車窓に映し出されて来ました。此れから始まる歴史的な対面の瞬間が、愈々迫って来ました。

新大阪を出発してから、凡そ5時間gawk大分県【別府市】に列車が到着。気持をeye引き締めて【親父】の待つ、hospital【国立西別府病院】へcarタクシーで直行。

diamond心の昂りが激しくheart02胸を打つ。この歴史的対面の瞬間を前に、婦長さんと面談。其の後、担当医の先生が時間を取って下さり私と初面談。diamond【親父】の病状に就いて、縷々説明を戴きました。そして、覚悟を決めましたdiamond〔長くても、余命1年との事でした。〕

そして愈々、婦長さんと一緒に【親父】とのannoy対面遣って来ました。annoy開口一番、私は【正彦】や!【親父】解るか?、、、、、と。【親父】は観念して待っていた様子で、ただただ頷く計りでした。其の後は、私が一方的に【筆談】で対話をして、申し上げる事は全て伝えました。shine【親父】は眼に薄っすらとweep泪を浮べながら、『済まん』!と一言を申すと同時に【正彦】か、、、、と初めて名前を呼んで呉れました。   記憶に残っている限りでは、この時の【親父】の呼び声が私にとっては最初で最後でした。

私は【親父】の耳元で、そうや!【正彦】や! と伝えると何度も何度も頷いていました。そして【親父】に、『もぅ 許してやるけん』・『後の事は心配するな』『全て、俺が面倒を見てやるけんもぅ 心配するな』、、、、と申して、此処に、annoy空白の40年間に【幕】が下ろされたdelicious瞬間でした。annoyPhoto_2

丁度、noodle昼食の時間でしたので【親父】が俺の為に、24hours売店で何か買ってやるのでwheelchair[車椅子]を婦長さんにお願いをしていました。そしてwheelchair[車椅子]に【親父】を乗せて、私が押して病院内を廻りながら24hours売店へ、、、、、、、。流石に病院ですので、beer【ビール】は有りませんので【お茶】とriceball【おにぎり】を買って貰い、再び病室に戻り一緒に昼食を取る事と成りました。  一時の間、二人は『無言の会話』中でした、、、、、、、。Photo

Photo_3 どれ位経ったでしょうか、、、、、私から【親父】に今からshadow【鉄輪のKさん】と待合わせの為にhouse自宅を訪問する旨を申し一旦、hospital病院を出る事を告げました。

shadow【鉄輪のKさん】、、、、、、【親父】が大変にお世話に為っていた方。TELでは何度もお話をしましたが、、、、、、、。愈々 初対面の時を迎える事と成ります。

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2008年5月10日 (土)

あれから、今 は、、【6】

49歳 私の誕生日・annoy平成13年8月8日に『親父』と再会を決意!annoy

私は【叔父】にその旨申しましたら、目にweep泪を浮かべながら何度も、何度も頷いていました。そして《積年の念》に終止符が打たれた事に、心から心からconfident安堵していた様子で私の北九州での話し合いは、取敢えず一つ山を乗り越えてbullettrain帰阪の路に、、、、。

さて、此れからは私が『親父』とどの様な再会をするのか、、、、が、私の心をthink悩ませていました。『親父』との40年間の空白を果たして乗越えられるだろうか、、、、、。帰阪してからは、日々葛藤の毎日でした。flairそして私として取り組みを行ったのは、先ずは市役所と病院との話し合いでした。

building市役所に【小倉の叔父】との話し合いの状況を全てお話をしました。そして、今後『親父』の事は私が引き受ける旨を申し上げました。同時に8月8日に『親父』と再会の為、別府の病院に出向く事を報告。Photo_11 市役所にも御挨拶に伺う事も伝えました。

又、hospital病院には市役所を通じて担当の婦長さんを紹介戴きました。婦長さんには、今迄の経緯を何度も申し上げて、この度『親父』に面会に伺う旨お伝えしました。同時に、今 何か必要な物が有れば送りますと云うと、○○と△△、、、云々。早速 手配をして送品。

其の後は、頻繁にtelephoneをして『親父』の状況を伝えて戴いてました。そんな或る時、婦長さんから鉄輪のshadow[K]さんが度々お見舞いに来られて要る事を聞きました。如何も『親父』が呼び出していた様でした。其処で【叔父】にshadow〔K〕さんの事を尋ねてみると、『親父』が今日まで色々とお世話に為っている方で、『親父』が勝手に自分の『後見人』さんに指名している方と判明致しました。(building市役所にも届けを提出していました。)

私は直ちにshadow〔K〕さんにtelephoneをして、『親父』の子供として初めての対話を致しました。鉄輪のshadow〔K〕さんには、今迄の経緯を申し上げて『親父』への心からのお力添えを感謝。shadow〔K〕さんは、私を快く受け入れて戴きまして本当に、本当に心からの感謝の念で一杯でした。そして8月8日に『親父』と面会をする旨を伝えると、shadow〔K〕さんは自分の事の様に心からhappy01喜んで下さりました。面会後にshadow〔K〕さん宅にhouseご訪問をさせて頂く事と相成りました。(shadow〔K〕さんからは、今から楽しみに心待ちにしていますとの事でした。)

平成13年8月8日Photo_12 に向けての準備は着々と整いつつ有りました。が、、、、、、。

一方hospitalの方はと申しますと、婦長さんが『親父』に息子さんが、面会に来る旨を伝え聞いていた『親父』は、自分には子供などいない!し、勿論happy02 私の事も全く知らないの一点張りで、子供の存在すら否定をし続けていた様子でした。其処で、婦長さんから私に手紙と写真を送って下さいとの事で早速hospital病院に、postoffice郵送致しました。然し、再三 子供の存在を否定をしたそうでした。

こうなれば、如何しても8月8日eye面会をして、『親父』をpunch平伏させて必ず、反省と謝罪をさせてやるぞ!、、、、との想いが日増しに高鳴っていました。

そして、愈々 迎えた 平成13年8月8日sun快晴の朝 bullettrain別府に向って  いざ出陣!!

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2008年5月 3日 (土)

あれから、今 は、、【5】

平成13年6月5日。   愈々、『叔父』との話し合いの場へ、、、、、。

朝からrain雨模様の天気で、話し合いの前途を危ぶむかの、、、雲域でしたな、、。後輩の車でカーナビを頼りに『叔父』のhouse家へと向いました。近くまで来た所でtelephoneをしていた時、私をまじまじと見詰ている初老の男性が、【正彦】か、、、、。と、声を掛けて来ましたので「ハイ」と答えると其の方が「親父」の弟の『叔父』さんでした。約40年振りの再会でした。

私の後輩に対しては、感謝の意を込めて最大限の御持て成しを施して戴きました。後輩とは、『叔父』の家で別れる事になり、私も感謝の念で『叔父』と一緒に後輩を見送りました。

愈々『叔父』との間で、空白の40年間を其々の想いで話し合っていました。不思議と自然に又、無意識の内に腹を割って話し合っていた自分が其処にいました。そして、今回の話の全容を知らされました。が、私としては素直に「親父」を許す訳にはいかないので、この場では即答を避けました。(今迄の母の苦労を考えると、時間が必要でしたので、、、)

其の時、『叔父』から兎に角 見せたい物が有るので、、、と渡されたのが”御祖母ちゃん”の【遺言】でした。Photo_10 「親父」に対する、「母親」の想い、、、、そして、「孫」にあたる私たちと「母」に対しての、後悔の念,、、、、等々。御祖母ちゃんの想いが、綴られていました。そして、最後に私達子供の誰かが「親父」の最期を看取ってくれる事を願って要る旨でした。同時に、『叔父』に対しては「親父」の「墓」を建てて最大限に供養する旨、申し伝えていました。

其の為『叔父』は、私との本日の話し合いが決まった時点に、既に「親父」の為の【墓地】を購入していた様でした。依って私に【墓地】の下見に行こうと申しますので、取敢えず連れて行って貰う事と成りました。

実は私の母がこの年(平成13年2月)にPhoto_8 【墓】を建立しまして、写真を送って着た事を思い出し○○霊園に【墓】を建てたことを話しましたら、何と購入された【墓地】は同じ霊園と判りまして、早々に2人で霊園に向う事と相成りました。(偶然は此れだけでは終りません)【事務所】で【墓の建立】の手続きを行い、場所の確認を致しました。そして母の建立した【墓】の場所とPhoto_9 「親父」の【墓】の建立予定地とが、中央の大通りを隔てて横一の場所でした。そして因みに、104歳の天命を全うした【御祖母ちゃん】の眠っているお墓が、三角点の頂点に位置している事が判明した訳で在ります。

【御祖母ちゃん】が、自分の廻りに私達を呼び寄せたの如く【不可思議な縁】を肌でひしひしと感じた次第でした。  私として、《腹》を決めました。

 平成13年8月8日、我が49歳の誕生日に別府の「親父」と再会を約束!!

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2008年4月27日 (日)

あれから、今 は、、【4】

mailto 平成13年(2001)5月2日。

『親父』の生存・存在を知った事で自分自身の中では、ある意味で大変に心が病んだ日々が続いていました。と同時にsnow[正月]からの約束事で、fuji【石鎚山】再登山の日が近づいていたのでした。  《2001年・正月に恩師と後輩とで【石鎚山】の再登山を計画。6月3日に敢行する事を約束していたのでした、、、、。》

然し、心の闇を晴らし新たな気持で『親父』との対面を決断する事に成ったのは、紛れも無く【石鎚山】の再登山でした。 Photo 実は1969年、school高校2年生の夏。山岳部の合宿で【石鎚山】縦走をしてから33年目の再登山が、『親父』との再会を決断したのでしょう、、、、、、、。44

2001年・この年は本当に不思議な年でしたなぁ、、、、。

ふっとした事から【石鎚登山】が決まり、ふっとした事から『親父』の生存を知らされる、、、何か運命的な計らいを感じて為りません。【石鎚山】を下山して二人と一緒に一路ship≪北九州≫に向う!愈々始るぞ!  翌日(6月4日)早朝に小倉港到着。下船後、魚釣りの為に遠賀郡芦屋のマリーナに向う事となった。思えば何と無茶苦茶なスケジュールだったか、、、今はゾーットしています。  《 fuji山に登ったと思ったら次はwave海ですからね 》 そして、迎えた6月5日。

『親父』に逢う前の準備で、『親父』の弟さん(私からしたら、子供の頃に遊びに行った御祖母ちゃんの家で、お逢いした「叔父」さん)と話し合う為の≪北九州≫入りです。この「叔父」さんが5月2日の別府市役所からのmailの張本人でして、何度も、何度もtelephoneで話し合いをしましたが、埒があかんので、直接対話をする為の≪北九州≫入りでした。Photo_2

「叔父」とも恐らく40年振りの再会となります。当初「叔父」は長男で無く、次男の私と『親父』の事で話し合いをするとは思っていなかったでしょう。が、先の{あれから、今 は、、(3)} で長男との関係を書いてます様に、大事な約束を平気で破る無礼者・長男が実は『親父』のお見舞いに別府に行く旨を、「叔父」に伝えて居たようでした。然し、結果は前述の話の通りです。

「叔父」は今迄の経緯上、私との対話を納得し『親父』の状況等を、謝罪も込めて話し合う事と成りました。   <平成13年6月5日 (2001年)>

 

  

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2008年4月20日 (日)

あれから、今 は、、【3】 

005 平成13年(2001)12月。

hospital国立西別府病院で『親父』にannoy”来年の7月20日に俺の息子を連れて来るので確りと養生しとけや!”と筆談したら、ベットでsmile頷いていました。(『親父』からしたら、孫に中ります。)003 其の後は、婦長さんにご無理を申してtelephoneでの対応を戴いてました。息子も来年は就職も決まって、ピカピカの社会人1年生になる年でした。私は次男ですが、兄の長男は『親父』を含めて重宝されたようです。が、此れが全くの出来損ないで困った者ですangry。 shine実は平成14年5月に大分県宇佐市で嫁方の法事が有るので、其の時に『親父』の見舞いに行く約束でした。shine当然 私は逐一病院の婦長さんにご無理をお願いしていました。然し結果は思っていた通りの結末でした。アホにも程が有りますわangry!この段階で長男に絶縁を宣言しました。(過去にも嫌と言うほどこの様な事は有りましたが、一歩も・二歩も引いて今日まで来ていました。恐らく事が事でしたので我慢の限界を超えたのでしょう。)そして、、、、、、、、hospital telephone  

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2008年4月19日 (土)

あれから、今 は、、【2】 

annoy2001年5月2日。

別府市役所の1通の書類から始りました。死んだと思っていた『親父』が生存していた事が判明。私に取っては約40数年振りの父親の存在でした。『母』の苦労を長年 観て来た自分としては、『母』の立場も考慮しながら『親父』との対面を決意!shadow2001年8月8日私の49歳の誕生日に別府の『親父』と面会をする。色々と過去の感情も有ったが、老衰した『親父』を目の前にして全てを許す事にした。diamondこの写真は『親父』の部屋の片付けをした時に見つけた物。(恐らく還暦の時でしょう)Photo_3其の後は毎月 、別府にbullettrain 見舞い行っては『親父』と筆談、、、、、。003

平成14年(2002)6月14日、、、、、、telephone

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2008年4月16日 (水)

あれから、今 は、、【1】

平成13年(2001)8月8日。

40年振りの『親父』との再会。

hospital 平成14年(2002)、『親父』旅立ち。think 今年2008年は7回忌やなぁ、、、、。その間に、school 30年後の同窓会を開催したなぁ、、(2003)・(2004)年。{写真は2004年}Dsc00008

あれから、皆は如何して居るかなぁ。噂では『畠』やんが、埼玉から帰九したとの事。『尚』が又インドに行った、、、、?皆よ!又、俺が召集を掛けるぞ!

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